2017-05-16 第193回国会 参議院 厚生労働委員会 第16号
しかし、日本では、東京オリンピック、一九六四年のライシャワー事件で、これは精神科病院への入院歴のある方が起こしたと。そして翌年、精神衛生法が改正されて、警察官による知事への通報が始まったんですよ。何か今回のことは、三年後のオリンピックも考えると、繰り返しをされているような気がしてならない。
しかし、日本では、東京オリンピック、一九六四年のライシャワー事件で、これは精神科病院への入院歴のある方が起こしたと。そして翌年、精神衛生法が改正されて、警察官による知事への通報が始まったんですよ。何か今回のことは、三年後のオリンピックも考えると、繰り返しをされているような気がしてならない。
さきに配付されました参考資料百五十七ページの精神保健福祉分野における制度改正の経緯によりますと、昭和二十五年の精神衛生法成立以来、精神保健法、精神保健福祉法と、内容とともに名称も変遷してきているわけですが、ライシャワー事件、宇都宮事件、池田小学校事件、そして昨年の津久井やまゆり園事件という衝撃的な事件がそのたびごとの制度見直しに対する一つの大きなきっかけになってきたと、そういう事実は否めません。
私は、うがった見方かもしれませんが、ライシャワー事件を思い出して、二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピックに向けて非自発的入院をしやすくしようとしているとしか思えないです。厚労省でいろいろ頭をひねったのは理解しますけれども、当事者が置き去りにされていないか、現場がその意を酌み取れるかどうか、精神障害福祉の現場が酌み取れるかどうか、甚だ疑問です。
ライシャワー大使を襲撃した事件から始まり、そして皆さんの御記憶の中には池田小学校があったりとか、本来、地域社会の中で、精神に障害があろうと知的だろうと身体だろうと地域社会の中でその人らしく暮らしていくという、そういう仕組みが大事なんですが、しかしそれをやろうとすると、事件、事故が起こると後退をしてしまうという、そういう私は認識を持っているんですね。
それから、エドウィン・ライシャワーは御存じのとおりであります。
同じような密約が存在して、将来それが公になったとき、これまで過去の事例を見れば、マスコミの報道ですとかアメリカの公文書、また、核の持ち込みでいえばライシャワー発言といったものもありましたが、こういったものがあったときに、政府みずから密約について公表する、存在を認めるということが、先ほどお話ありましたが、速やかにできるのかどうかを外務省に伺います。
(パネルを示す)下の方に、アメリカのライシャワー元大使が、もちろん現職のときにはそういうことはおっしゃっていないんですが、やめた後、毎日新聞のインタビューに答えて、こういうふうに言っているわけであります。
ですから、次の池田内閣のときに、当時の総理が核を積んだ米軍艦の日本寄港は認めないと答弁して大問題になって、当時のライシャワー大使が大平外務大臣と会って、実はこういう密約があるんだという話をしたと。そういう記録も残っております。 何でこういう密約を結んだのに引き継がれてなかったのかと、これ謎だったんですよ。これがこの四人の元次官の証言で明らかになりました。
ライシャワーさんが傷つけられたときだって、国家公安委員長が責任をとったんですよ。だから、何も政治職の方は責任をとる必要はないようなことを仙谷官房長官が言っていますけれども、あれは極めてとんちんかんな発言ですよ。あなたの首だけとろうとしているの、それはおかしいと私は思うよ。 もう一回答えてください。それは、声があるんでしょう。どんな声が寄せられているのか、鈴木長官。
ここに三系譜と書きましたが、国務省の伝統的な、菊クラブとよく言いますけれども、日本語を専門として日本の実情を学ぶ国務省の外交官キャリア、あるいは在日米軍を経験した米軍関係者、あるいはライシャワー元駐日大使に代表される学界の人々、この三系譜があると思うんですが、これがそれぞれかなり細くなっていると。
その知るに至る時期というのは、大平・ライシャワー会談のときなのか、あるいはもう少し後なのか、ここも議論が分かれるところでありますが、少なくとも、東郷局長のメモが作成されたその中には、明らかにアメリカ側の考え方が日本と違うということは日本政府は承知をしていたわけでありますから、その後のことについては、これは明らかに解釈が違うことをわかっていて、そして進めてきたということであって、その間、六〇年からたしか
日本でも、一九七八年に共同通信、一九八〇年に朝日新聞、それから、最近ですけれども、毎日新聞で報道されていましたけれども、先月、ライシャワー元駐日米国大使の特別補佐官であったジョージ・パッカード氏が、一九六六年の少なくとも三カ月間は岩国基地に核兵器搭載の揚陸艦が係留されていたというような証言もしているということですね。
これについてはライシャワーも激怒したというふうな話がジョージ・パッカード氏から出ていましたけれども、本来、事前協議の対象となるべきものであったにもかかわらず、それをしないで持ち込まれていた、そういう事実関係が私は推測されるんですけれども、坂元教授はどのように評価されますか。
しかし、うわさは、一たん出ていってまた入ってきた、こういうことを言っていますので、ライシャワーさんがそれだけ激怒したということは、明らかに何かの違反があったんじゃないかというふうに、私は、うわさの段階といいますか、ライシャワーさんの証言だけですけれども、あるいはライシャワーさんの部下でありましたパッカードさんの証言だけですけれども、あるいはほかにも証言がありますけれども、そういう方の証言を信じるとすれば
○東郷参考人 今手元にその文書を持っておりませんので、これは記憶で申し上げますが、松永条約局長の後、栗山条約局長、それから小和田条約局長、丹波条約局長、この残り三人の方々が、条約局長になる前、どの立場におられたかはちょっと記憶しておりませんが、ラロック発言とそれからライシャワー発言について、それぞれ意見書を書いて省内の議論に提出しておられました。
○森田参考人 そもそも大平外務大臣も、ライシャワー大使に言われるまでに、事務当局からこういう問題があるよというような説明は受けていなかったと私は思っております。そして、ライシャワー大使から話を聞いて、これはアメリカ側の言うのがもっともだ、日本の安全保障政策からいって、一々事前協議の対象とするのは適当でないというふうに思ったと思います。
問題は、今回の有識者委員会の中でも、いわゆる大平・ライシャワー会談とか佐藤・ライシャワー会談、こういう実はさかのぼっていく話ですが、先ほどですと、そうそう余り具体的には、大平外務大臣なり、つぶさに言われていないのかなというふうに思いますが、あえて再度お聞きさせていただきますが、当時、大平・ライシャワー会談等について、ゴルフ場へ行く車中等のお話がございましたけれども、改めて今日時点に至って、この場で解明
いや、そこまでの証拠はない、いや、むしろそれに反するような資料も出てきた、だからそれはそこまでは言えない、そこで終わってしまったのでは、やはり議論が深まったことにならないのであって、最初はそうだったかもしれないけれども、しかし、その後の大平・ライシャワー会談、あるいは東郷北米局長のメモ、そういうものを見ると、どこかで日本は気がついて、気がついたけれども、お互い、これは詰めるとまずい、ですから詰めずにおこうということで
委員も、アメリカ側のそういった大平・ライシャワー会談のアメリカ政府に対する報告、それがそのまま事実かどうかということについて、必ずしも確信は持っておられないというふうに思うんですね。つまり、そこが今御指摘のようなことであったのかどうかということについては必ずしも明らかではない、むしろ日本側の受け取り方は違う、そういったことも今回の検証の結果、明らかになってきた点だと思います。
○岡田国務大臣 このライシャワー大使と大平外相の会談、これは朝食会という形で行われましたが、いろいろな意味でちょっと異例な会談だったと思います。まず、外務省の職員が入っていないということであります。そういう中でどういうやりとりをなされたのか、いろいろな考え方があるというふうに思います。
○国務大臣(中曽根弘文君) 私どもといたしましては、一九八一年でしたか、いわゆるライシャワー発言が国会で取り上げられた際に、当時の鈴木総理から、大平さんの御発言に関して、大平さんはそういうこと、そういうことというのはライシャワー大使が大平外相に対して申入れを行って大平外相がそれに対してオーケーと言ったということを指すわけでありますが、そういうことは言っておらない、後の外務大臣にもこのことを引き継いでおらない
○井上哲士君 大平・ライシャワー会談というのは一九六三年のことなんです。私が言っていますのは、これは一九六〇年に藤山外務大臣と当時のマッカーサー氏が署名をした討論記録があるはずだと、そういう証言も外務次官がしていると、これを出していただきたいと言っているんですが、いかがですか。
○井上哲士君 先ほど大平・ライシャワー会談のことを言われましたが、今示したこの討論記録があったにもかかわらず、次の池田総理が寄港なども持込みに当たるという国会答弁をしたと。そこで、アメリカ側でそれが大問題になったわけですね。
と御答弁されておられますし、また、一九八一年当時、いわゆるライシャワー発言が国会で取り上げられました際にも、これはライシャワー発言というものは、ライシャワー大使が大平外相に対して、大平外相は本件の申入れ、つまり持込みですね、大平外相はそれに対してオーケーと言ったというようなことを指すことでございますが、これについて鈴木当時の総理から、大平さんはそういうことを言っておられないと、後の外務大臣にもこのことを
まず、ライシャワーさんの発言として……
私はやはり、この間政府が否定をしてきたこのいわゆる密約報道、先ほども既にやりとりがありましたが、いわゆるライシャワー発言、八一年、日米間口頭了解があるんだ、核搭載をした艦船の寄港を認めるという口頭了解があるんだと。また、六三年の大平文書、核を積んだ米艦船の寄港、そして通過は認める、こういう文書がアメリカ国立公文書館で見つかった。
また、先日来もあったわけでございますけれども、新聞報道では、過去、ライシャワー駐日大使が大平外務大臣に対して、核を積んだ艦船と飛行機の日本への立ち寄りは核兵器の持ち込みには当たらないことを確認したと報じておりますけれども、外務省の立場はいかがでしょうか。
核搭載艦船の寄港、領海通過は事前協議の対象としないということを一九六三年にライシャワー駐日大使が大平外務大臣に対して確認をしたというようなことが報道等で言われておりますけれども、そのような事実を私ども承知をしていないということについては従来からも御説明をしているところでございます。
当時のライシャワー駐日大使は大平正芳外務大臣と会談し、核を積んだ艦船と飛行機の立ち寄りは持込みに当たらないとの解釈の確認を要求され、大平外務大臣は密約の存在を初めて知って、了承したとされています。こうした経緯や解釈は日本語の内部文書に明記され、外務省の部局で管理をされてきたといいます。これらのことは四人の外務次官経験者が共同通信に明らかにしています。
○政府参考人(梅本和義君) まず、これは例えば昭和五十六年にも当時の鈴木総理が御答弁されておりますけれども、このライシャワーさんと大平さんの話を先ほど御指摘になりましたけれども、大平さんはそういうことを言っておらない、外務事務当局も一切承知しない、記録もない、こういうことでございますと、こういうふうに申し上げているわけでございます。
ここに述べていますように、ライシャワー駐日大使、当時のアメリカ大使、一九六三年、大平外務大臣、この立ち寄りについては核の持ち込みではないという確認をして、日本語で内部文書で明記されて、北米局と条約局で管理されてきた、こういうふうに具体的に述べております。そして、これは次官から次官に、次の次官に確実に引き継ぎをされてきたということでございます。
六三年の四月にライシャワー大使が大平外務大臣を訪ねて会談をして、そして密約の存在を大平外務大臣は知って、そして了承したと、事前協議の対象にしないという了承をしたという話なんですよ。 外務大臣、本当に外務省の金庫を捜して、なければ、本当に国家のどこかに、官邸かどこかになければ、私は声を大にして今質問をしてきましたから、謙虚に素直に謝ります。謝ります。
この資料によりますと、一九六二年九月の、当時の外務大臣の大平正芳外務大臣とライシャワー駐日大使の会見の写真が出ております。こういうふうな写真も出て、そして、ライシャワー大使がその後、一九六三年の四月に外務大臣と会談をしております。